鄭成功(1624〜62年)

この頃の台湾は南部にオランダ、北部にイスパニアが進出しており、オランダは安平に1624年ゼーランジャ城、 1625年台南に赤カン楼(プロビデンシャ城、別名紅毛城、後に鄭成功が承天府とする)を建て、 イスパニアが1626年基隆にサン・サルバドル城、1629年淡水にサン・ドミンゴ城を建てた。 その後1642年オランダが北部に侵攻しイスパニアを駆逐する。 一方で17世紀初頭より漢民族の福建省や広東省(いわゆる広東人ではなく遅れて広東省に入った広東客家)から、 台湾南部への移住が盛んになる。その理由は人口増加の圧力と明から清への王朝交代が主なものである。

この時期に出現した鄭成功は日本では近松門左衛門の国性爺合戦の主人公として知られる。 彼は長崎平戸生まれで幼名福松、父鄭芝龍は貿易商人(海賊?)で1612年には徳川家康に謁見している。 母田川マツは松浦藩足軽の娘。

後に父が明の軍事顧問となったため中国に渡るが、1644年李自成が明を滅ぼし清を建てる。 そこで清への対抗策として、台湾を拠点とするため(反清復明)、 1661年台湾に侵攻し、当時台湾を支配していたオランダと戦い、1662年これを破り、台湾独立の英雄となった。 鄭成功は同年に没したが、その子の鄭経、孫の鄭克爽が台湾の開拓経営に専心し、台湾発展の基礎となった。 しかし1683年清の支配下に置かれる。