第3章 民族と歴史
6千万年前、北アメリカでウマの祖先ヒラコテリウム出現。小型のイヌくらいの大きさで、前脚に4本、後脚に3本の指。
2百万年前、鮮新世の終わりから更新世の初め頃、現世馬の祖先エクウスが北アメリカから旧世界に渡る。
数万年前、フランスの旧石器時代の中・後期にウマを飼う。
3万5千年前、シリアのドアラ洞窟にネアンデルタール人がイヌを飼う形跡。オオカミからと考えられる。
1万3千年前、中石器時代にネグリート。
1万2百年前、新石器時代、モン・クメール語族が大陸部に住む。後にビルマ南部やタイ平原に国を建てるモン(Mon)族やカンボジア人の祖先であるクメール族。
1万年前、ウマの歯が日本でも出土。しかし縄文人はウマとは無縁の生活。
1万年前、日本にもイヌ。在来のニホンオオカミと比べると大きさが違いすぎるので飼い慣らしたものではない。
7千年前、河北省磁山、江蘇省河姆渡で食用のイヌ飼育。河姆渡人は水稲農耕民で高床式住居に住む。後の百越。
イヌの次に家畜化されたのは人間と食べるものが競合しないヤギ、ヒツジ、ウシで、これらは人間が食べない草を食べる。
ブタは食べ物が人間と一緒で能率が悪いからそれより遅れる。
BC4800年 仰韻文化(BC4800〜3000)は粟作民族によるもので、家畜化されたブタが飼育されていた。
BC4000年 ウクライナのウマの歯に銜(ハミ)による特有のキズ発見。これが乗馬の起源とされる。
BC4000〜3000年 カレン族が雲南からビルマへ、カレン族は中国の奥地からビルマ方面に南下して来たチベット・ビルマ語族の先駆け。
BC3500年 タイ、スマトラ乾燥化
BC3500年 朝鮮で畑作が仰韻文化から伝わる。
マレイ・ポリネシア諸語族の移動
BC3000年 第一波。寒冷化が始まり、南下の圧力で中国南部から南方に移動、
東南アジア大陸部から太平洋島嶼部(台湾、フィリピン、インドネシア、ニューギニア)へ移動し、
先住のネグリート他と優勢に混血。
5千年前を頂点とする高温期(ヒプシサーマル)は、現在より+2℃年平均気温が高かった。
この頃に農業が世界的な規模で拡大した。
アメリカ大陸では野生のトウモロコシが栽培化されたことが、野生トウモロコシの最後の形態の遺物が出たことからわかった。
BC2000年 第二波。急速に寒冷化、華南から移動し、東インド、東マダガスカルからオセアニア、ポリネシアまで分布。
現在のマレーシア、インドネシア、フィリピンの原住民。ヴェトナム・チャンパ王国のチャム族も。
高温期が5千年前に終わり、以降寒冷化。3千年前頃にはほぼ現在と同じレベルになる。
乾燥地帯がアフリカからアジアにかけて出現。ラクダの家畜化が約3200年前に始まる。
BC3000〜1500年 寒冷化によりツングース系が移動し朝鮮・日本へ。
BC2800年 ジャワ島西部乾燥化
長江下流域が乾燥化と低温化により稲作水田化する。生産性が向上し人口圧が高まり江南へ南下する。遼寧省で農業。
BC3000〜2000年 西アジアで畜産農業から遊牧(ノマディズム)が分かれる。BC1000年くらいにかけて乗馬の技術を備えた騎馬民族が出現する。
BC2000年以前にアルタイ語族中央アジアから東進してアルタイ山脈最南端(k)へ
中央アジア遊牧民がインド・ヨーロッパ語の祖先
BC2000〜1000年 カレン族を追うようにタイ族がタイ平原に下ってくる。
BC2000年 黄河中流域の苗族、南下して長江中流域へ。
トン族は苗族に追われ南下。
BC2000年 台湾に農耕民移住。
BC2000年 乾燥化によりアルタイ系東進。
BC2000〜1000年 紅河下流と西江のタイ族移動
BC2000〜1000年 ヤオ族移動
BC1500年 気温急速に下降
BC1500年 西日本人が朝鮮から移住
BC1400年 南西諸島に縄文土器
BC400年 弥生人はイヌを食用にしていた
黄帝と炎帝の「阪泉の野の戦い」
炎帝神農(甘粛省天水付近)
五帝
黄帝(四川省西部長江、春秋以降に登場、戦国の斉時代の創作)
帝せんぎょく
帝こく
帝曉(日なし、ぎょう)
帝舜
帝が前か後か
BC2070年 タイ系部族が夏王朝をたてる。この頃、稲作が黄河に達する。
帝ぎょうが帝せんぎょくの子[魚系](こん)に位を譲ろうとするが、こんはテスト(長江の治水)に失敗し、帝舜に禅譲される。
こんの子うが夏王朝を建てる。
社は夏王朝の神
神体は句龍(こうりゅう)という2匹の龍
良渚文化の玉器
九鼎はうが作る、中国の九つの州を表す、周の滅亡時し(さんずいに四)水に沈む
儀荻(てき、ウ冠無し)に酒を造らせうに献進「戦国策」(魏)
夏のうの時代成都に和夷。
四川・雲南・貴州に倭人の王国
BC1628年(夏の29年?)サントリーニ火山噴火
BC1600年 湯王が夏を倒して商(殷)を建国、商人の起こり
商民族=有[女戎](ゆうじゅう)は東夷の出で、契(せつ)の子孫=成湯・天乙(いつ)が商王朝建てる
帝傑(にんべんなし)と商の湯王「鳴条の戦い」
この頃旱魃で冬の麦作に影響
十干は太陽が10個ある神話に因んだ
高宗武丁(聴覚異常)のとき最大の版図、甲骨文字発明
商代にはハミはない。オモゲー(面繋おもがいの転化)を使う。ハミの使用は西周から。
商後期三星堆遺跡(C14で4800〜2850年前)
西周前期BC9C中頃魚(鳥のしたに凡のてんなし)から杜宇へ百数十年
開明王朝三百数十年
BC1046年 武王が商第30代[糸寸](ちゅう)王を倒して周を建国
[糸寸](ちゅう)王倉庫を建てる
鹿台ー銭
[金巨]橋ー穀物
米価調整用ではないか
[糸寸]または受=帝辛(辛は本名に当たるいみな)と周の武王「牧野の戦い」
商も周も鳥を神聖視([魚昆]こんという魚が鳥になり鵬という)していたので戦いの陣形は雁行、後に鶴翼の陣。
夏は魚が神であったので魚鱗の陣。マンダレー・ヤンゲンタンのご神体も魚だった。
これらは中原でのことで百越はその外になる
周は西方の民族で、西周(12代)、東周合わせて750年間
初代武王が建国後すぐに没し、子の成王は幼いので、西を妻の邑[羊の下に女](ゆうきょう)、
東を弟の周公、名を旦が統治する(東には商の残存勢力がいたため)。
太公望呂尚はきょう族の出、後に斉を建国
伯夷は山岳民族の孤竹(こちく)国の長子、三男が叔斉
成王の代、都を洛陽、九鼎を置く(陽は川の北や山の南に、陰は川の南や山の北の地名につけられる)
西周初期は温暖、BC1000年頃周、チベット寒冷期
倭人「東夷」と呼ばれた
BC1000東夷が周や斉に討たれ、最後は呉により統一される
ドンソン文化
商の残存勢力は東と北に逃れ、東の奄という国(東夷の一つ)の君主を担いで周に反撃しようとする。 周は召公の力を借りて奄をつぶし、そこを支配下に置いた召は奄と呼ばれる。 反動勢力はまたしても東と北に逃れる。 周は東を太公望、北を召公の兄弟(召公は中央にとどまる)に掃討させる。 奄が空いたので周公旦(周王・武王の弟)の子の伯禽を入れ、魯と変える。 北へ行った召は相変わらず国名を奄としていたが後に燕に変えた。 燕は北燕と南燕があり、北燕は北京の近くで、南燕は戦国時代に無くなり、燕といえば北燕を指す。 燕はBC221秦に滅ぼされる。
BC900年 ミヌシンスク盆地にカラスク興る。
(じゅう・西方の異民族)
により遷都。金高(こう)京→洛陽→洛邑
(じゅう)の南下により西周滅ぶ。
(てん)中を属地とする。
第16代威王(BC339〜29)、
国を討つ。
楚は木の間から昇る太陽を表す字
BC403年 戦国時代から前漢(BC202年〜AD8年)まで温暖期
BC400年〜AD20年 弥生暖期
BC4〜3世紀 内陸アジア湿潤化、陰山山脈は森林と草原。
BC350年 万里の長城建設始まる。
BC3世紀〜AD3世紀 匈奴から漢民族が乗馬を習うが、農耕民の漢民族は乗りこなせない。そこで鐙を工夫した。
召公[百大百]せき漢水の近く、南方文身
商時代に召という国(甲骨文にある)
周と対立する頃若い君主せき
漢水近くにあり南の勢力をまとめる
きょう族遊牧民を太公望が率いて召周連合軍に参加
奄(えん)、魯、燕
南燕戦国時代亡ぶ
北燕BC222秦により亡ぶ
BC316年 秦の司馬錯
BC221年 秦、古代中国統一
五行相剋の考えにより、周は火なので、秦は水とした。
始皇帝が蜀、巴を領有して蜀郡、巴郡を設置。
鄭(てい)の武公 周の王都・宗周(西安市の西)から120km東の謂(さんずい)水沿い
周の平王の27(BC744)
鄭の荘公 黄泉 周の板王の19(BC701)
魯の荘公 太鼓 周の恵王の15(BC662)
斉の桓公 周の襄王の9(BC643)
宋の襄公 周の襄王の15(BC637)
楚の成王 周の襄王の26(BC626)
晋の文公 周の襄王の24(BC628)
秦の穆公 臣下に伯楽 周の襄王の31(BC621)
楚の荘王 周の定王の16(BC591)
呉のこうりょ 周の敬王の24(BC496)
呉の夫差 周の元王の3(BC473)
越王句践 周の定王の4(BC465)
覇者 斉桓晋文
春秋五覇 斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の宋王
戦国七雄
秦
商王朝の頃よりあることが甲骨文に名があることでわかる
周を支えるきょう族は秦と犬猿の仲
戎に攻められ周王戦死、王子が生き残る
秦は王子を助け、洛陽で王朝を再開
その功により周王朝の中の君主と認められる(BC770)
秦は兄弟相続
徳公
長兄宣公子9人
次兄成公子7人
穆公
兄が亡くなるとその子ではなく弟に位
呉末子相続
越遠祖は夏王の小康
BC7世紀〜AD3世紀 スキタイ鐙(アブミ)や鞍をつけない
BC3世紀 アショーカ王仏教の布教団をスヴァルナ・プーミ「黄金の地」に派遣とある。
おそらく下ビルマのモン族の町タトン。上座部仏教の教典「南伝大蔵経」にソーナとウッタラという長老
BC3世紀 紅河中流の文郎国が蜀の安陽王に滅ぼされる
コーロア(ハノイの対岸)に大土城
BC2世紀 ズンガリヤ盆地穀物栽培
BC219年 秦の始皇帝南征。南海(いまの広東)、桂林(いまの広西)そしてベトナム北部におよぶ地域に象郡などを置く。
BC209年 匈奴強勢
BC203年 秦の始皇帝の部下で、中国人の趙陀が広東を中心に、
南越(ベトナム,粤とも書く、ベトナム語では形容詞はあとにくるので越南)王国を建てる。
都はいまの広東。
BC150年〜AD300年 シルクロード湿潤期
BC111年 漢の武帝、南越を征服し、九郡を置き、交州刺使に統治させる。 そのうち交足止、九真、日南の3郡が現在のベトナム領内。 一番南の日南郡の南境は北緯16度あたりの「雲の峠」といわれる海雲関あたり。 南越は100年足らずで滅亡、これより約千年「北属期」。
BC1世紀 紅河の東京デルタに安南族が西(区なかが品に瓦)駱国建てる。
漢代以降中国の植民地、10世紀に独立。
BC108年 遼河流域の古朝鮮滅亡。
AD0頃 ピュー(pyu)族によるピュー王国、都はプローム、1000年近く栄える。
ピューは当時中国の奥地から徐々に南下していたチベット・ビルマ族の先駆でモン族の北方に隣接し仏教が盛んで、
仏教経典のパーリ語訳やインドのグプタ美術の影響による彫刻や青銅像がある。
ピュー族の遺跡
プローム郊外のフモーザー
タウンドゥィンヂー郊外のベイタノー(1,2世紀〜3,4世紀)
シュエボー郊外のハリンヂー
サンスクリット語、パーリ語、ピュー語で書かれた金板。
石 、仏像、ヒンズー神像
煉瓦で城壁を築き、濠をめぐらせ水田耕作
シュリ・クシェトラ(3〜10世紀)718年ヴィクラマ王朝の支配下
1世紀初頭の東南アジア
中南部ベトナム沿岸にチャム族のチャンパ(林邑、後に、占城)
メコン中流域にクメール人の扶南(クメール語のプノム(山)に関連)
チャオプラヤ流域と下ビルマにモン族
イラワジ(エーヤワディ)、シッタン川流域にピュー族
マライ半島北部にランカスカ
AD25年 後漢、気候変動期
AD40年 ベトナム徴姉妹(徴側、徴弐)の反乱
AD48年 匈奴、南北に分裂
AD57年 倭の奴国、後漢の光武帝から金印授与
AD87年 匈奴、鮮卑に破れる
AD91年 匈奴、後漢に大敗
AD97年 ビルマ・單(てへんがつく字・タン)国の王、擁(てへんなし)由調が和帝に珍貨を献上し金印を授与
AD100年 扶南王国がベトナム南部とカンボジアを支配。 建国者カウンディンヤ(山の王の意)は東インドからやってきて、龍王の娘ソーマと結ばれて王統ができたとされる。 よくわかっていないが、チャム族と同じ海洋民族と思われる。 1942年ルイ・マルレ(仏)がロンスエン郊外のオケオで扶南の遺跡を発掘。 オケオ遺跡は幅3.5kmの広大なもので、運河が張り巡らされ、200km離れたカンボジアまで至る。 古代インドの影響を強く受け、中国とインド、アラビア、アフリカとの貿易を行っていた交易国家で、 2世紀頃のマルクス・アウレリウスのローマ金貨も出土している。 交易路は海路インドからマレイ半島を象で越えオケオを経由して中国に至る。 その後船が大型化し、マラッカ海峡を通過するようになり、衰退し、そこを真ろうやチャンパに侵略され、7世紀頃滅亡する。 しかし、真ろうを経てクメール王国、7世紀中部ジャワのシャイレンドラ王国、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国に受け継がれる。
AD107年 倭国王帥生が生口160人を安帝に献上
AD120年 ビルマ・タン国、安帝に「楽及び幻人」を献上し、漢の大都尉に任命される。
AD131年 後漢、ヤヴァ・ドヴィーパにあたると思われる「葉調」と呼ばれる国からの使節を受ける。
AD184年 黄布の乱
AD192年 区連がチャンパ(林巴)建国(〜1697)
AD240年頃〜 古墳寒冷期
AD2世紀後半〜3世紀初頭 倭国の乱
AD265年 西晋客家の南下
客家の移動は主に5度に亘る
1.魏晋南北朝時代
2.唐代の黄巣起義
3.元の侵入と宋の南下
4.清の侵入
5.広東西部の「土家械闘」と太平天国起義の失敗
AD3世紀 中国の歴史書では驃族(ピュー族)香木を輸出とある
AD4世紀 俑(ヨウ・人形)に鐙があるが左側にだけで踏み台だった。
やがて乗っているときにも便利なので両側につける。
AD4世紀末 日本に確実に馬が出現
AD5世紀後半 日本に馬が大量に渡る
AD5世紀以降 朝鮮南部から乗馬が伝来
AD5世紀後半から6世紀 大阪の四条畷市に朝鮮系の馬飼い集団
AD5世紀 シナ・チベット語系南下し、ビルマ人がビルマ北部に王国パガンエメラルド仏
550年 パサック地方の真鑞(月へん、チェンラ)が独立。 扶南の王族バババルマン1世が、真ろうの王女と結婚し国王となる。
AD7世紀 鐙が西アジアに伝来
7,8世紀 雲南北部から四川南部のタイ人が南下、 チベット南東斜面のビルマ人がイラワジ川中流域に南下、カレン族イラワジ河を渡る。 ラオス南部からクメール人南下。
7世紀以降のモン族の国々(資料により名称表記や年代が異なるが取り敢えずそのまま載せた)
チャオプラヤ河下流にドヴァーラヴァティ王国(トウァラウァティー)(7〜8世紀)
タイのロッブリー(lopburi)はアユタヤから北へ約60kmにあり、
6世紀〜11世紀にわたりモン族のドヴァーラヴァティ王国の中心都市であった。
チャオプラヤ河上流のハリプンジャヤ国は8〜13世紀に栄え、スコータイにより滅亡。
ビルマ・ペグーを中心にハンタウァディー国(9〜11)
シッタン川河口タトゥーンを中心にスダンマウァティー国(9〜11)
スドハマヴァティー国はビルマ南部に興り、8世紀に終わる。
その後ペグー王国となり、パガン朝により1044年滅。
640年 クメール族の真ろう(2代目バババルマン2世)が扶南を滅ぼす。
657年 真ろう、ジャヤバルマン1世(〜681年)即位。
705年 真ろう南北に分裂。北が陸真ろう、南が水真ろう。
水真ろうはやがて、中部ジャワのシャイレンドラ王国の支配下におかれる。
AD8世紀 鐙が日本に伝わる
760年頃 安南総督阿倍仲麻呂
792年 驃国、南詔経由で唐へ朝貢
802年 ジャヤバルマン2世即位し、アンコール時代(〜1431)始まる。 ヤショーバルマン1世(在位889〜900)旧アンコールトム建設。
唐の太宗、ヴェトナムに安南都護府を宋平(いまのハノイ)に設ける。 駱越の封建制にしたがって間接統治。 駱越は百越の最南端にあった国で水稲栽培、髪の毛を編み、頭布をまき、 キンマの葉で包んだビンロウ樹の実をかみ、歯を黒く染める習慣。 青銅器文化のドンソンの遺跡がある。
802年 驃国が唐の徳宗に楽士を派遣、法螺貝を吹き、銅鼓を連打して自国の舞を披露した。
それを見た若き白居易は「驃国の楽」という長詩を詠んだ。
829年 南詔が唐に対し攻勢に出る。
二度にわたり安南都護府を攻略し、これによりベトナム独立のきっかけになる。
832年 驃国、南詔に侵略され滅亡
835年 モン、南詔に侵略され滅亡
9世紀中頃 4本の支流が流入する低湿地チャウセー(モン族居住地、古名ミッター)
に原初ビルマ族定着し、
騎馬民族から農耕民族に変身する。
移動経路
云南->シーポー->ナムトゥー河->ロークソーク->イェンガン->ナッティ峠
849年パガン付近にビルマ族が定着、タモゥツダリイツが19の村々を統合し、王となる。
7代目テレェチャゥン王、12代目タイタイン王を経て、
874年 34代目ピンビャー王オールドパガンに遷都。タラバー門建設。
9世紀後半 アンコールトム
931年 ナツラァウン寺院ヒンズー寺院
939年 ゴ・クエン(呉権)ヴェトナム独立を宣言し大越国を建てる。
安陽王の伝説で由緒のある古螺(いまの福安省内)に都を置く。
呉氏を含め12人の土豪の対立抗争が激化、その数年間を「12使君の時代」という。
6年後ゴ・クエン没。
965年 ゴ朝終わる
968年 12使君の一人の部下、丁部領ヴェトナム大瞿越建てる(〜979滅)。
都は華門に呂(ニンビン省)。
980年 将軍レホアン(黎桓)がヴェトナムの帝位に就く。
1010年 親衛隊の指揮官李公蘊ヴェトナム李朝建てる(〜1225)。
李朝の太祖、都をハノイのタンロン(昇竜)城とする。
1044年 李朝の次代太宗(在位1028〜54)、北方のタイ族、チャンパ攻撃。
次の聖宗(在位1054〜72)大瞿越を大越に改める。文廟建てる。
7代高宗(在位1176〜1210)の頃衰え始める。
9代215年で滅び、陳朝にかわる。
1044年 AD5に興ったパガン42代目アノーヤター王により統一王朝パガン朝(〜1287)が成立、
首都をペグーにおく。
1057年 アノーヤター王の象軍団、ビルマ南部のモン族の首都タトンを占領。
モン族は海上交通に巧みで高い文化を誇っていた。
タイのメナム河(チャオプラヤ河)流域に7〜8世紀頃存在したドヴァーラヴァティー国などがあるが、
クメール帝国に圧迫されモン族はビルマ海岸地域に逃げてきていた。
アノーヤター王はタトンの王マクタ、大臣、僧侶、職人など総勢3万人をパガンに連れ帰った。
モン族はスリランカとの密接な文化交流があり上座部仏教(テラワーダ仏教)に接していた。
ビルマ語の文字もモン族の使っていた文字をもとにして作られた。
1057年 シュエサンドーパゴダをアノーヤター王が建設
1058年 ピタカタイを同じくアノーヤター王が建設
1075年 大越が宋を攻める
1090年 アノーヤター王の次男チャンスィッター王(3代目、在位1084〜1112)がアーナンダ寺院建設。
この頃がパガンの最盛期でパガンの建築物の多くが建設された。
シェエズィーゴンパゴダ建設アノーヤター王とチャンスィッター王
パガン遺跡25万平方マイル
12世紀アンコール期
スールヤヴァルマン2世(在位1113年〜1150年)
の頃絶頂期アンコールワット1120年頃着工
1131年 シュエグーヂー寺院4代目アラァゥンズィトゥ王
12世紀前半 アラァゥンズィトゥ王
12世紀中頃 タビニュ寺院アラァゥンズィトゥ王
1167年 ダマヤンヂー寺院アラァゥンズィトゥ王の次男5代目ナラトゥ
1174年 中国、ヴェトナム李朝に「安南国王」の称号を与える。
1177年 アンコールがチャンパの支配下に
1181年 7代目ナラパティズィトゥ王(在位1174〜1211)スラマニ寺院建立。
この後ゴードーパリン寺院を建てるが途中で亡くなり息子のティロミンロ王により完成
1190年 ジャヤヴァルマン7世(在位1181年〜1220年)
チャンパ攻撃し、王都を回復。その後アンコールトム建設
1225年 ヴェトナム李朝滅び、チャン(陳)朝成立(〜1413)。
李朝の豪族陳嗣慶が反乱、甥の陳けいを即位させる。
ヴェトナム王タイントン(陳朝初代太宗)
末期に8年間胡氏の簒奪胡季り
1238年 クメールの支配下にあったタイ人がスコータイ朝を興す。 初代シーインタラチット王(〜1278)時代は周辺十数キロを支配する土侯国だったが、 子の3代目ラームカムヘン王(在位1279頃〜1316頃)の時に発展して最大領土を獲得する。 クメール文字の借用を改めて、独自のタイ文字を創始する。 タイ文字で書かれた最古の碑文(1292年)がラタナコーシン朝のラーマ4世により1834年に発見されるが、 それによると「北はルアンプラバン、南はナコンシータマラート(リゴール)、東はヴィエンチャン、 西は下ビルマのペグー」に至る。 また碑文には「水に魚あり、田に米あり」と豊かな産物に恵まれたことや、 王は道行く人から税を取らないという、土侯国的な色彩の濃い国であったことが記されている。 スコータイはクメールの強い影響下にあったため、 クメールがヒンズー教から仏教に変わるとその建造物も、 塔の先端に蓮の蕾の置物を持つ仏塔という、スコータイ様式に変わっていく。 また秋の満月に行われるロイクラトーンという祭りも、始めは水の精霊に感謝する精霊信仰だったものが、 仏教思想が入るように変化している。 スコータイ(Sukho Thai)は、パーリ語で幸福を生む町、タイ語で自由の夜明けを意味する。 この遺跡はバンコクの北450kmにあり、広さ45平方km以上、周囲2kmの堀を持つ。 1991年世界遺産に登録される。
1251年 フビライ、漠南漢地大総督に任命される。
1253年 元軍、雲南・ビルマ遠征。タイ族の大理国滅ぶ。
1257年 ヴェトナム陳朝、4度にわたる元の襲来を撃退。
元の本格的な出兵は1257、59、84〜85、87〜88年の4回。1257年8月元の使者が藩臣となることを要求するが、
これを拒否し使者を捕虜にする。12月元の将ウリヤンハタイが首都タンロンを攻略し、9ヵ月占領するが、
それ以上の足掛りを作ることはできなかった。
やがてヴェトナム王タイントンが反撃、元軍は暑さと疫病も加わり撤退、さらに撤退の途中にはゲリラ攻撃にも悩まされる。
その後元は中国南宋との戦いに精力を注ぐ。
1260年3月 フビライ、ハーンに即位。
1260年 フビライ北京占領
1271年 フビライは服属を要求したがパガン朝は拒絶
1274年 元寇(文永の役)
1274年 ミンガラゼジーパゴダを11代目ナラティハパテェ王
1276年 フビライ南宋征服
1277年〜87年フビライ4度に渡り討伐軍を送りンガサウンジャンの戦いでパガンに勝利。
この戦いの様子はマルコポーロの東方見聞録に詳しい
1281年 元寇(弘安の役)
1282年 元軍海上交易支配のため海路でチャンパ(占城)攻略するが反抗される。
1283年 元軍は同じコースでビルマに進入、パガン朝最後の王ナラーティハパテは南方に避難、アラカン族、モン族が背く。
1284年 タンドーヂャ石仏
1284年 12月フビライの皇子ら50万の元軍が陸路ヴェトナム、海路チャンパに侵入。
翌年首都タンロンを落とす。
ヴェトナム王ニャントン(仁宗)の将チャン・フン・ダオ(陳興道)激しく抵抗し、1285年6月元軍を撃退する。
1287年 2月元軍陸路広西、雲南から、水路広東からヴェトナムに侵入、再びタンロンが落ちる。
1288年3月バクダンサン(白藤江)でチャン・フン・ダオが元の船団を撃破し、元軍はヴェトナムから退却する。
1287年 パガン王ナラティハパティが元軍に暗殺され
2世紀半(1044年から1287年まで243年)の繁栄を誇ったパガン朝は滅亡する。
元の支配は11ヵ月で一段落し、その後3代のパガン王が即位する。
その後、小王国の対立抗争の時代、ビンヤ王国(1312〜64)とサガイン王国(1315〜64)のシャン族の王朝が自立、
次いでアバ王国(1364〜1555)が統一、アバ朝はビルマ族と連合して下ビルマのモン族と対抗する。
下ビルマでは、ワレル王(在位1287〜96)がペグー朝創設(別名ハンターワディ朝1287〜1539)。
1292年頃 スコータイに元の使節何子志が来訪、それを受けてラームカムヘン王自らが、元の首都大都(北京)を訪問。中国の陶磁器製造の技術を学ぶため、帰国時に陶磁器の技術者を連れ、窯を作る。地名からサワンカローク焼きと呼ばれる。これは日本にも輸出され、寸胡録焼といわれ桃山時代の茶人に珍重される。 次王ルータイ(在位1316頃〜46頃)の失政で版図の大半を失う。
1294年1月フビライ没
1296年 タイ北部チェンマイのピン川(Mae Nam Ping)河畔に、 ランナータイ(Lan Na Thai、百万の田のタイ族)国建国。 初代メンラーイ王(King Mengrai、1238年〜1317年)は、 北方よりチェン・ラーイ(Chiang Rai)、 ハリプンチャイ(現ランプーンLamphum)を征服し、1296年チェンマイ建設。 当時はスコータイ朝第三代ラームカムヘン王の治世で、 ランナータイ国はその後動乱と服属の歴史を繰り返すことになるが、 1556年ビルマ軍の進入により260年の幕を閉じる。 チェン・ラーイはチェンマイから北約180kmのコック川(Mae Kok)辺にあり、 モン族のドヴァーラヴァティ王国があった所で、メンラーイ王の居城が残る。 また10世紀〜12世紀にチェン・ラーイから北約60kmにあった、 チェン・セーン(Chiang Saen)王国の南の守りの要所がチェン・ラーイであった。
1299年 ミンザインのシャン族が名目だけのパガン王統を廃絶。最初はパガンの支配下にあったが、
東部のシャン高原からイラワジ平原に進出。
1300年 シャン族元を撃退
1312年 シャン族のテイハツがビンヤ王国、1315年その子のアティンカヤがサガイン王朝。
この2つの王権は同じシャン族のマオ・シャンのトーチーブワーが叛乱し滅ぼされる。
1350年 スパンブリーとロッブリーの2大王家の勝者スパンブリーのラーマティボディ1世がアユタヤ朝(1351〜1767)を興す。
1353年 ラオスのスワーの地(現在のルアンプラバン)に、 ファー・グーン王(在位1353〜73)がラオス最初の統一国家ランサーン王国(百万の象)を建国する。 領土はメコン河中流域からコーラット高原まで、ほぼ現在のラオスにあたる広さがあった。 それ以前には、北部のルアンブラバン、シェンクァン、中北部のヴィエンチャン、 南部のチャンパサックに小国らしきものが存在していた。 このうちルアンプラバン近くにあったシェントーンの小国では、代々首長(王)が統治していた。 上東輝夫著「ラオスの歴史」によると、 このシェントーンの王の子として生まれたファー・グーンは生まれたときに33本の歯を持っていたという。 これを宮廷の占い師は、父王に背き反乱を起こす不吉な前兆であるとして、 国王にファー・グーンをメコン河に流すように進言した。 ファー・グーンの筏はクメール帝国の領域で拾われ、クメール王に養育され、 青年時代をアンコール・トムで過ごし、王妃はクメール帝国の王女を娶り、 クメール帝国の援助を受けてルアンプラバンに進軍・征服し、ラオ族を統合した。 そのためクメール帝国と同じくテラワーダ仏教が信仰された。
その一方でチェンマイのランナータイ王国とも王位の継承を含めて相互交流が行われた。例えば、 ランサーン王国のセタティラート王子は、ランナータイ王国で王位継承問題が起きた際ランナータイ王国の国王に就任している。(1560年)
1353年 アユタヤがアンコール攻撃
1357年 クメール帝国からランサーン王国に仏教使節団が多数の教典やプラバーン黄金像をもたらす。
1364年 マオ・シャンのトーチーブワーの子孫タドーミンビャがインワに遷都し、インワ初めて王都に。 旧名はラトナプラ「宝の町」という意味。第一次インワ王朝が上ビルマ(ビルマ中央部)を平定するが、 北方のマオ・シャン、モーニン・シャンの脅威を受ける。
1394年 アユタヤ5代目ラーメースワン王第二次アンコール遠征
1400年 ヴェトナム陳朝滅亡。胡朝(1400〜07)興るが、その後20年間明の直接支配。
1428年 タンホア省藍山の土豪レ・ロイ(黎利)明を追放し、即位して太祖(在位1428〜33)となり、
ヴェトナム黎朝(〜1789)を興す。伝説によるとレ・ロイは天から神剣を授かり、明を打ち破り、
湖の辺で休んでいると、巨大な黄金色の亀が現れ神剣を持ち帰る。
そこでハノイのこの湖はホアン・キエム(還剣)湖と呼ばれる。
1431年 アユタヤがアンコール滅ぼす。ボニャーヤート王がアンコールを放棄しバサンに遷都となっているが、これは別の王権と思われる。
1438年 アユタヤがスコータイ併合
1444年 トゥパヨンパゴダ、インワのナラパティ王
1471年 大越(ヴェトナム)の聖宗(在位1460〜97)チャンパの首都ヴィジャヤを陥落させ、 ラオス、ルアンプラバンの老過(てへん)国に侵攻する。
1475年 ペグー朝ダンマゼーディー王スリランカに仏教使節団。
1486年 ビルマ第一次タウングー朝(〜1599、第二次〜1752)の第二代タビンシュウェティ王(在位1531〜51)が基礎を築く
1500年 ラオスにチャオ・ウィスナラート王が即位。
1513年 チャオ・ウィスナラート王がワット・ウィスナラート建立。
その後1887年に中国により焼失し、現在のは1896〜98年に再建されたもの。
1526年 北方のシャン族の藩王トーハンブワーの叛乱により第一次インワ王朝崩壊
1527年 シッタン川上流タウングーの王ダビンシュエディー(在位1531〜1550)が、
ポルトガル人傭兵とその火器を利用してタウングー朝(1531〜1752)を建国。
1539年 ダビンシュエディー王、下ビルマのペグーを占領し、都に定め、
北進して古都パガンで戴冠式をあげ、ビルマ全土を統一する。
1546年 ダビンシュエディー王、ペグーでも戴冠式をあげ、ビルマとモンの融和を図る。
1551年 ダビンシュエディー王モン族により暗殺。2代目バインナウン王(在位1551〜1581)即位。
1556年 バインナウン王チェンマイ征服。ランナータイ滅亡。
1560年 ラオス、セーターティラート王は相互交流のあったランナータイ王国が、
ビルマ・タウングー王朝に占領されたのをみて、ビルマ軍の侵攻に備え、アユタヤ王朝と親交を結ぶことを目的とし、ヴィエンチャンに遷都する。
旧王都スワーにはプラバーン黄金像が残されたのでルアンプラバンと改称され、
遷都後も王都として栄え、ルアンプラバン王家は1975年まで続く。
ルアンプラバンのワット・シェントーン建立。
セーターティラート王はヴィエンチャンのタート・ルアンやホー・パ・ケーオ(エメラルド仏寺院、1565年建立)など多くの寺を建てる。
1564年69年 ビルマ・タウングー朝のバインナウン王、ポルトガル砲兵隊を傭兵とし、
アユタヤ征服、15年間支配下に置く。
1574年 バインナウン王ヴィエンチャンを征服し国王ポーティサットをビルマに連行するが、
国内が安定せず、1584年アユタヤのナレースエン大王(在位1590〜1605)、1592年ルアンプラバンが離反する。
1597年 イエーナンダメイッ、インワ王に即位。第二次インワ王朝(〜1751年)
1598年 ラオス、ポラウォンサー王が即位し、ビルマからの独立を宣言する。
1599年 タウングー王朝ナンダバイン王(在1581〜99)の5度にわたるアユタヤ攻略の強行により衰退
1605年 ニャウンヤンの領主アナウペッルン(在1605〜28)が混乱を統一。ニャウンヤン王朝(〜1752年)
1630年 アラカン王国に日本人町
1635年 アナウペッルンの弟タールン王(在1609〜48)シャン族対策のためペグーから再びアバに都を移す
1636年 サガイン、カウンムードパゴダ
1637年 ラオス、スリニャウォンサー王が即位し(在〜1690)、大越(ヴェトナム)やアユタヤとの国境を確定して、
平和を維持する。
1663年 アユタヤ・ナライ王がカンボジアの青銅像をタイへ持ち去る。
後に(1784年)ビルマ・コンバウン朝によりマンダレー・マハムニパゴダに置かれる。
1672年 サガイン、ティローカグル洞窟寺院
1690年 ラオス、スリニャウォンサー王の死去により、ランサーン王国に王位継承を巡る内紛が生じる。内紛に乗じた反対勢力がルアンプラバンを占領したため、
セタティラート2世は友好関係にあったアユタヤに援軍を要請する。ところがアユタヤのスーア王は自国の勢力拡張のためにランサーン王国の分離を謀る。
1707年 アユタヤ王朝スーア王(スリジェンタラーティボディ王)の調停により、
ランサーン王国がルアンプラバン王朝とヴィエンチャン王朝に分裂
1713年 チャンパサック王朝がヴィエンチャン王朝から独立
1718年 ルアンプラバン、ワットシーン建立。
1730年 ローカタラプーパゴダ
1751年 南のモン族(仏の武器供与を受けた)に攻められ第二次インワ王朝崩壊
1752年 17世紀初め(1605年)、ニャウンヤン侯およびその子アナウッペッルンにより収拾され、
上ビルマのインワに覇権が確立するが、北方からマニプール、南方からモン族に挟撃され、
1752年滅亡する。ニャウンヤン朝末の王チャータバデーはモン軍の捕虜として下ビルマに連行されたが、
エーヤワディー河西岸のモウソーボーの村長アラウンパヤーは、近隣60ヵ村のビルマ族を集めモン族に対抗する。
アラウンパヤーは、シャン族、チン族などと連合しモン族を撃退してシュエボゥで王位(在位1753〜1760)に就き、
統一王朝コンバウン朝(〜1885)成立
1754年 インワを奪回
1755年 モン族の拠点プロームとダゴンを奪いヤンゴン(ヤン=敵、ゴン=撃滅)と名づける。
1756年 難攻不落といわれたシリアムを陥落
1757年 遂にモン族の都バゴーを占領して、全ビルマを平定する。その後アユタヤを攻めるが敗走。
1758〜59年 マニプールに遠征
1760年〜64年 サガイン再び王都
1760年 アユタヤ攻撃
1763年 ビルマ・コンバウン朝第三代シンビューシン(〜1776)
1767年 ビルマ・コンバウン朝がアユタヤを滅ぼし、アラカンを征服支配。
1767年 シャムの再興を図りアユタヤ王朝の武将であったタークシン(在位1767〜82)が、ビルマ軍を撃退しトンブリー朝を開く。
同じ頃中国の乾隆帝による4度の侵入を撃退
1773年 ヴェトナム西山党の乱、元(こざとへん)文恵
1777年 ビルマ・コンバウン朝がシャムに侵攻するが敗退。
1778年 トンブリー王朝のシャム軍、タイ北部のビルマ軍を攻撃掃討し、ヴィエンチャンを占領。
その後支援したルアンプラバンを占領し、プラバーン黄金仏、エメラルド仏を持ち去る。
同じ頃ヴェトナムのフエ王国も北部ラオスに進出し、シェンクァン地方を支配下に置く。
1782年 覇王タークシンを倒したプラヤー・チャクリーがラーマ一世に即位し(在位1782〜1809)、
バンコク朝成立(又はチャクリー朝、あるいは出身地からラタナコーシン朝、
現在のプーミポンアドゥンラヤデート王はラーマ九世)
ビルマ・コンバウン朝第五代ボードーパヤー王(在位1782〜1819)
1783年 ボードーパヤー王アマラプラに王都
1783年 ピタカタイをアマラプラのボードーパヤー王が修復
1783年 アウンミェローカパゴダをボードーパヤー王が建設
1784年 マハムニパゴダをボードーパヤー王が建設。
ここの青銅像は1663年カンボジアからアユタヤ王朝がタイへ持って行ったもの。
黄金仏はアラカン・ミャウーから持ってきたもの。
1785年 アラカンがコンバウン朝ビルマにより征服される
ラーマ一世ビルマの侵略軍10万を撃退
1789年 ヴェトナム黎朝滅ぶ
1526年権臣の莫登庸に権力を奪われる
元金(さんずい)により中興するが名ばかり
それ以降ハノイの鄭氏とフエの元氏の対立抗争時代
著名な寺院建てられるフエ郊外の天姥寺(ティエンムー、リンプー)
1802年 アマラプラからサンダムニパゴダへ鉄製の仏像が運ばれる
1802年 元(こざとへん)福映、西山党を亡ぼす。
安南を統一しグエン朝(元朝)開く(〜1883)
1804年 ヴィエンチャン王国でチャオ・アヌ王が即位し、シャムからの独立を目指し、
シャムに軍をすすめるが、失敗する。
1811年 サトーヤパゴダ
1816年 シンピューメェ(ミャティンダンパゴダ)バヂードー王(3年後にボードーパヤー王の後を継ぐ)
1818年 マハーアウンミェ寺院バヂードー王第一夫人
ヴィエンチャン、ワットシーサケット建立
1819年 ミングォンパゴダの建設ボードーパヤー王死去で中断。1790年鐘
英、シンガポール獲得
1820年 パトドーヂーパゴダバヂードー王
1823年 バヂードー王王都インワに戻す
1824年 第一次緬英戦争、ビルマの敗北によりアラカン、タニンダーイーが英に割譲される。
1826年 ヤンダボで降伏条件調印。
1828年 ラーマ三世のタイ軍、ラオスに遠征し、ヴィエンチャンのホー・パ・ケオ破壊。
ヴィエンチャン王国を直轄領とする。
1829年 チャウーットーヂーパゴダ(アマラプラ)の石仏
1838年 大地震でターヤーワディー王アマラプラに遷都
1841年 アマラプラ再び王都。ウーペインはインワからアマラプラに遷都する際インワの旧王宮から材料を運び橋を造った市長
1843年 バガヤー寺院ターヤーワディー王
1847年 エインドーヤーパゴダ仏像は1839年インドのブッダガヤから運ばれる
1851年 「王様と私」で知られる、啓蒙君主モンクット王がラーマ四世を即位。
1852年 第二次緬英戦争。英ヤンゴンを占領、次いでマルタバン、パセイン、ピィ(プローム)を英領に編入、下ビルマ全土が英領となる。
1853年 パガン王の跡を継いで即位したミンドン王アマラプラからマンダレーへ遷都
1857年 クドードォパゴダ
1857年 本格的な王宮の造営〜1860年
1865年 チャウットヂーパゴダ(マンダレー)ミンドン王
1866年 サンダムニパゴダ、ミンドン王の弟カナウン暗殺
1867年 プラバーン黄金仏がラオスに返還される。現在ルアンプラバンの王宮博物館に安置。
1878年 ミンドン王が世を去りティーボー王が即位
1884年 第2次フエ条約によりヴェトナムはフランスの植民地になる。
1885年 第三次緬英戦争。1826、52、85年と3回にわたるイギリスとの戦争。
猛将マハーバンドゥーラ率いるビルマ軍は勇敢に戦うが、圧倒的な軍事力の差は埋めがたく、
その結果、英マンダレーを占領しティーボー王をインドへ追放、コンバウン朝崩壊。
ここに840年に及ぶビルマ王朝は終わる。
1886年1月1日 ビルマ、イギリスの植民地となる
1886年 フランスがルアンプラバンに領事館を設置。
1887年10月 カンボジア、仏領インドシナ連邦の成立にともないこれに編入される。
1893年10月 フランスは2隻の軍艦をバンコクに派遣し、武力で威嚇し、ランサーン王国の宗主権をシャムから奪う。
ラオス、フランスの植民地となる。
植民地時代−略−
1945年8月17日インドネシア独立
1948年1月4日ビルマ独立
1975年4月30日ヴェトナム対米戦に勝利し、独立。
1975年12月2日ラオス独立