第5章 資料
1665年ロバート・フック(英)自作の顕微鏡でコルクの細胞観察
1809年ラマルク(仏)「動物哲学」用不用説と獲得形質の遺伝
1838年シュライデン(独)植物の細胞説
1839年シュワン(独)動物の細胞説
1869年アルフレッド・ラッセル・ウォーレス(alfred russel wallace、英、1823-1913)
「マレー諸島」出版
「マレー諸島」上下 新妻昭夫訳 ちくま学芸文庫
平民出身で、経済的な理由から14歳の時学校をやめ、その後独学で博物学を学ぶ。 ダーウィンより14歳年下の彼は、ダーウィンの「ビーグル号航海紀」を読み、憧れてアマゾンやマレー諸島で暮らしている。 「フライキャッチャー」(蠅取り屋という軽蔑的な言い方だが、経済基盤の無い彼にとっては、現地で標本を作り、 それを本国に送り、収入を得るというのは、一石二鳥)であり、 無神論者(ちなみにロンドン郊外ドーセット州ブロードストーンにある彼の墓標は十字架ではなく樹木の化石)であったので、 ダーウィンのようにキリスト教の影響とは無縁であった。そのため12年も早く「種の起源」の考えに到達していた。
「赤道の首飾り」と呼ばれるインドネシアの小スンダ列島に、1854年から8年間滞在し、 島々をめぐる航海は2万5千キロに及び、その間集めた標本は12万5千点にも達する。 1857年香料諸島の東の果てアルー諸島(日本の四国くらいの大きさ)に上陸、 目的は生きたオオフウチョウ(極楽鳥)を獲る事であった。 この島の住人はパプア(マレー語で縮れたの意)系で、ワヌンバイ(WANUNBAI)村で共に暮らした。 彼はダーウィンと異なり未開の土地の人々を進化の途上の人々とは考えなかった。 この村はその後コレラのために放棄され、現在は住み跡を残すのみとなっている。
高校生物で有名なウォーレス線はバリ島とロンボク島の間に引かれた線で、 ここを境に生物は西のアジア区と東のオーストラリア区に分れる。 これは彼がバリ島からロンボク島に渡った際にバリ島にはいなかった生物が突然ロンボク島で現れた事から発見された。 その例としてカカトゥアプティ(キバタン・白オウム)があげられる。 又、住人もバリ・ヒンズー教の穏やかなバリ人に対し、イスラム教で勇猛果敢なササカ族に代わる。 彼らはオランダによる植民地支配にも激しく抵抗した民族である。 ロンボク海峡は幅24kmと狭いが、水深1000mと他の島の間に比較すると非常に深く、一度も繋がった事はない。 バリ島のアグン山と同じように、この島のリンジャニ山も、小さな島に比べ高く、地殻変動の跡をうかがわせる。
当初、ウォーレス線は北のカリマンタン(旧ボルネオ)島とスラウェシ(旧セレベス)島の間を通るように引かれていたが、 その後、ウォーレス自身をも悩ます事になる。 Kの字の形のスラウェシ島には、両方の生物が混在していたからである。例としては、
クスクス(有袋類)
タルシウス(セレベス・メガネザル)
絞め殺しの木(イチジク科)
クロザル(アフリカのヒヒに似る)
シュウダンムクドリ(アフリカのサイにつくウシツツキに似る)
バビルーサ(ブタシカ)アフリカのイボイノシシに似る(これの牙は伸びると自身の目を貫く事があり進化の暴走の例とされる)
マレオ=飛べない鳥で地熱を利用して卵を孵化させる(オーストラリア区)
現在は大陸移動説により、およそKの字の|の部分は西から、残りの部分は東から来て合わさった事がわかった。
「サラワク法則」ボルネオで発表
オランウータンとヒトが親類
1858年2月スラウェシ島の東、テルナテ島でマラリアの熱にうなされながら、
生存競争が種の進化をもたらすというテルナテ論文(変種がもとのタイプから無限に遠ざかる傾向について)を執筆する。
これにより自然淘汰説が天地創造説を否定することになる。
この論文は尊敬するダーウィンの元に送られる。(2人は150通もの手紙のやり取りをしていた)
この論文を読んだダーウィンの驚きは想像に難くない、
直ちに(1958年7月1日)自身のメモ書きと共に連名で自然淘汰説をリンネ協会において発表し、
翌1859年「種の起源」(THE ORIGIN OF SPICEIS)で進化論を発表するが、このときにはウォーレスについては触れられていない。
これを読んだトマス・ヘンリー・ハックスリーは感動し、ダーウィンの信望者となり、「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれる。
ダーウィンは「銀の匙を咥えて生まれた子」(一生働く必要がないという意)と呼ばれ、 妻エンマは陶器で有名なウエッジウッド家の出である。 貴族階級であるダーウィンはウォーレスのようにキリスト教から自由ではなかった。 そもそも彼が「進化論」を追い求めたのは、この世を支配する神の摂理を示したかったからである。 丁度ニュートンが「プリンキピア」で示した力学法則を、生物において示したかったからである。 皮肉な事に「進化論」は神の天地創造説を否定する事になるが、科学者であるダーウィンとその信望者達は、 「進化論」が偉大な科学の功績である事はわかっていた。従ってその栄誉は平民の出であり、 ましてやフライキャッチャーであるウォーレスに与える事は絶対にできなかった、 この栄誉は貴族であるダーウィンが受けるべきものであると考えた。 それがヴィクトリア朝時代の大英帝国の貴族の考え方であった。一昔前の日本でも、 現地の助手の研究は当然指導教授の名で発表されていた。
一方、名誉欲などなく、現地での研究を無上の慶びとしていたウォーレスにとっては、その様な事はどちらでもよく、 むしろ尊敬するダーウィンの一助となることに満足していた。 彼の心配は自分達の研究により、極楽鳥が標的になり、絶滅してしまわないかという事の方にあった。 そこで彼は「美しいものは人間のためにあるのではない」と警告を発している。 しかし、彼の心配は的中してしまう事になる。
承知で引き受けた事とはいえダーウィンの方は非難の的となる。
新聞の一コマ漫画にダーウィンの顔にサルの体をつけられ揶揄されるなど、
ガリレオの時代ほどではないにしても、キリスト教徒の反発は根強いものがある。
サルを親とされることに対する人々の反発の理由は、第一に何といっても、キリスト教の教えに反しているからであるが、
その外に、日本人のようにサルを身近に見ていると近親感が湧き、なんとなくヒトと似ていることも実感しているが、
ヨーロッパにサルは居ないから、サルに馴染みが薄く、単なる動物の一種という程度の認識では、一緒にされることへの反感も強い。
ちなみにダーウィンの進化論は3つの骨子から成る。
natural selection(choiceではなくselectだから自然淘汰)
the struggle for existence(struggleだから生存闘争)
survival of the fittest(こんな言葉は無いが直訳すれば最適生残)
その論理構成は、
(1)同じ種の中でもランダムな突然変異が生じ、
↓
(2)これらの間で生存闘争が起こり、適者が生存する。自然はこれを淘汰する。
↓
(3)代を重ねることで種が進化する。
というものである。
現在ダーウィン進化論の問題点は、
(1)については、有利な個体が出現するのか。
(2)については、有利な個体が生存する確率が大きいのか。
(3)については、個体の変化が種の変化になるのか。
また、化石は不連続に進化しているという事実。
に対して明確に説明できていないことである。
1861年ドイツバイエルン地方ゾルンホーフェン石切り場で始祖鳥の化石が発見され、「進化論」の有力な根拠となる。
始祖鳥の羽毛は恒温動物の証拠で、変温なら外気温をさえぎる羽毛はないほうがよい
すでに羽毛を持った爬虫類がいた
1925年ハイスクールの生物教師J・スコープスが「進化論」を教えることを禁じた州法に違反したとして100ドルの罰金刑を受けた。
1982年アーカンソー州の州議会が「創造論」も平等に教えるべきだという法案を可決し、それに対し連邦地裁が違憲の判決を出すという事件が起きた。
1996年10月25日付け新聞報道によると、ローマ法王ヨハネパウロU世は、1992年の「地動説」に引き続き「進化論」を認めた。 「進化論は多くの科学的裏付けによりもはや仮説ということにはならなくなった。 しかし我々の肉体は進化したものであったとしても、精神は神から与えられたものだ。」とした。
1860年ヨハンセン(デンマーク)「遺伝子」という言い方の始まり
1800年代遺伝の融合説
問題点
代を重ねると「灰色」になって父母の違いがなくなる
変異を説明できない
1865年グレゴール・ヨハン・メンデル「植物雑種に関する研究」
オーストリアのブリュン(現在はチェコのブルノ)
8年間で355回の交雑実験で約1万3千株
いわゆる「メンデルの法則」で、「一対の遺伝子」という概念をつくる。
現在では次のように解釈できる。
遺伝するとき、対立遺伝子が分離し(分離の法則)、他の遺伝子から独立して行動し(独立の法則)、
発現するときに優性・劣性の決まり(優劣の法則)があることを示した。
なお、優性・劣性というのは形質そのものに優劣があることを意味してしまうが、メンデルが意図したのは、
発現に対して優劣があるというものであるから正しくない。
これは戦前の「優生保護法」に代表される考えによる曲解である。
現在は優勢・劣勢と表すのが正しいが、中国では顕性・不顕性と表している。さすがに漢字の国である。
1869年フリードリッヒ・ミーシャー(スイス)
核にリンを多量に含む物質を発見し「ヌクレイン」と呼んだ。
これは細胞の核をヌクレアスということから、「細胞核物質」という意味で名付けた。
1883年A・シンベル(独)葉緑体
1890年R・アルトマン(独)ミトコンドリア
古典的な共生説は評価されなかった
1889年「ヌクレイン」が酸性物質であることがわかり、「ヌクレイック・アシッド」(核酸)と呼ばれるようになる。
1900年メンデルを再評価
ド・フリース(オランダ)
カール・コレンス(ドイツ)
エリッヒ・チェルマク(オーストリア)
の3人がオオマツヨイグサ(ド・フリース)、エンドウ(カール・コレンス、エリッヒ・チェルマク)の
交雑実験でメンデルの法則を再確認する。
1901年ド・フリース(オランダ)「突然変異説」オオマツヨイグサの実験
mutation(ラテン語の「変わる」)に由来し、遺伝子の実態がわからなかった時代には、
子孫に現れる変化でしか見ることができなかったから、「突然」がついた。最近は省くことが多い
1909年カール・コレンス非メンデル遺伝現象発見オシロイバナの葉の色
1924年A・オパーリン「生命の起源」
1926年モーガン(米)遺伝子学説
DNAの構造がわからなかった時代には、「遺伝」を担う架空の”素粒子”を「遺伝子」と考えた。
英語でははっきり区別している
遺伝子 gene
遺伝 hereditary
1928年F・グリフィス(英)
遺伝が化学物質で決まることを説明。その後、その物質がDNAか蛋白かで意見が分かれるが、当初蛋白の方が優勢だった。
蛋白は20種のアミノ酸からできているが、アミノ酸2個では、20x20=400通り、3個では20x20x20=8000通り、
平均300個だから、膨大な組み合わせができる。それに対し核酸は糖、リン酸、4つの塩基だけで、構造はまだ分からなかった。
そのため蛋白に比べ単純な物質に思えた。遺伝のような複雑な情報を伝えるには蛋白の方が適当だと考えられたからである。
1944年ロックフェラー研究所のO・エベリー、C・マクロード、M・マッカーティらが肺炎双球菌により、遺伝はDNAによることを示す。
1952年ニューヨーク、コールドスプリングハーバー研究所のA・D・ハーシー、M・チェイスらが、 大腸菌に感染するウイルスにより、遺伝はDNAであることを決定的にする。
大腸菌に感染するウイルス(中原英臣p154)
細菌性ウイルス(バクテリオファージ)
大腸菌1〜4μm
ウイルス20〜400nm
ウイルスにとって大腸菌は超高層ビルのようなもの
1949〜1953年E・シャルガフ(コロンビア大)
「シャルガフの法則」AとT、CとGが同じモルずつある。
モル数 A G C T
ヒト 30.9 19.9 19.8 29.4
1950年ライナス・ポーリング(linus c. pauling)
R・B・コーリーと共にX線回析によりケラチンの右巻き螺旋(αーヘリックス構造)モデル提出
1953年4つの塩基が外側を向き、リン酸基が内側にある、DNAの3本鎖モデル提出
1953年2月28日ジェームズ・ワトソン(james d. watson 25才 米)とフランシス・クリック(francis h. c. crick 33才 英)
DNA(deoxyribo nucleic acid)の二重螺旋構造解明
1953.4.25ネイチャーで発表。根拠となったのはDNAのX線解析像と「シャルガフの法則」
1950年代アカパンカビ、酵母などにより、非メンデル遺伝子は細胞質にあることが確認。
1954年R・セガー(コロンビア大)クラミドモナスの細胞質遺伝。
H・C・ユーリーとS・ミラー太古の地球環境で7種のアミノ酸合成。
1955年ジョージ・ガモフ(米)
ビッグ・バンの提唱者
塩基配列がアミノ酸の並び方を示すことを説明
1962年H・リスとW・プラウト(ウイスコンシン大)
クラミドモナスでミトコンドリアDNA発見。
ナス夫妻(ストックホルム大)
動物のミトコンドリアDNA発見。
ミトコンドリアや葉緑体のDNA配列は核のDNAと異なることから、古代に侵入したウィルスが共生したものと考えられる。
1967年リン・マーグリス(ボストン大)
「連続共生説」原核と真核の中間タイプがないことの説明
1969年マーチソン隕石(オーストラリア)に17種のアミノ酸
1970年「セントラルドグマ」崩れる
アメリカのボルティモアのグループと水谷、テミンのグループによる、逆転写酵素をもつレトロウイルスの発見により、「セントラルドグマ」崩れる。
1970年「真核細胞の起源」
今西錦司独自の進化論「棲みわけ」「種社会」
1971年ウイルス進化論中原英臣ら
現在までのところ、象の鼻(正確には上唇)やキリンの首が長くなった理由や、ヒトがビタミンC生成能力を喪失した理由などを、
合理的に説明しているが、如何せんウイルスが実証されないことには、御都合主義的でもある。
1972年S・グールドとN・エルドリッジ(米)「断続平衡説」
短い間の急激な変化と長い間の平衡期
1984年カリフォルニア大学サンタクルーズ校学長R・シンスハイマーがヒト・ゲノム計画を発案。
1985年5月サンタクルーズで最初の会議。
アメリカのダルベッコがサイエンスに「ヒトの遺伝子をすべて解明する意義」を発表
1990年D・ラック、J・L・ホール
クラミドモナスと呼ばれる緑藻の鞭毛の根元にある基底小体という細胞内小器官に、核とは別の遺伝子を発見
その後これはマチガイだったことが解る。
1988年ヒト・ゲノム計画アメリカ議会に提出。
1989年1億ドルの予算でスタート、達成予定2005年。
1990年秋第1期5ヵ年計画2.5cm間隔アメリカ保健省とエネルギー省
1993年9月第1期終了
同年10月第2期発足初年度予算1億7千万ドル
各国で同様の取り組み
フランス
ヒト多形解析センター(CEPH)
ジェネソン(ゲノム解析機構)
イギリス
ケンブリッジにサンガーセンター
サンガーは塩基配列解析のサンガー法の開発者
ヒトゲノム機構(HUGO)
38カ国加盟
日本
1989年学術審議会の建議
1991年文部省を始めとし、厚生、科技、農水、通産
1996年4月24日酵母解読完了
酵母はペアの遺伝子をもつ最も下等な生物(真核細胞)で1206万の塩基配列を持ち、染色体16本、遺伝子約6千。
遺伝子の1/2〜2/3がヒトと似る。ヒト・ゲノム計画の最初の目標。
単細胞の真核生物
ミドリムシ
酵母
クロレラなど
2000年6月26日ヒトゲノム約85%解読完了
この日アメリカのクリントン大統領は衛星放送でイギリスのブレア首相と結んで、
アポロ11号の月着陸に匹敵する成果だと発表した。
日本の慶大医学部と理研の担当者が科技庁長官に報告書を手渡したのと好対照であった。
それもそのはずで、日本の担当は21番と22番染色体という最も短いものであり、
それとて米英(22番)独(21番)との共同研究であった。
日本はPCR法の使用でも莫大な特許料を支払っているのに、
ヒト・ゲノムまで米英に握られては21世紀は到底立ち行かないことになるだろう。
ここにもロスト・デケイド(失われた10年)が表れている。
イギリス、ケンブリッジMRC研究所
フレデリック・サンガー
1945年タンパク質のアミノ酸配列を決定する方法を発明
1956年インシュリンのA鎖(21のアミノ酸)、B鎖(30のアミノ酸)の全構造を解明
RNAの塩基配列の決定ではR・W・ホーリー(米)に遅れを取る
DNAに乗り出す
1975年プラスマイナス法を発明
1981年ヒトのミトコンドリアDNAの全塩基配列
環状のミトコンドリアDNAは1万6569塩基対
長さ5μ
12Sと16SのリボソームRNA遺伝子
22種類の転移RNA遺伝子
電子伝達系の13種類のタンパク質の遺伝子がコード
合計37個の遺伝子
イントロンがない
ミトコンドリアは自律できないことが決定