第13項 鵜飼の習俗
水稲栽培と共に中国南方から日本へ伝わった。稲作ドミナントの段階。
長江下流域から東シナ海を横断して北部九州に伝来した。
そのため朝鮮半島にはほとんど例がみられない。
このような例は他に高床の穀倉、蛋白質源として豚ではなく魚、
水稲の移植播き、貫頭衣、茅の儀礼、馴鮓などがある。
鵜という鳥に一種の呪術的な力を認める信仰もあった。
古代日本に鵜の羽で産屋を葺く慣行が存在した事が、
ウガヤフキアエズノミコトの神話にみられる。
インドのプラマプトラ河、北ベトナムのハノイにも見られるが、
中心は中国(長江、漓江、洞庭湖、(ハ)陽湖)、日本である。
可兒弘明「鵜飼」中公新書、他
(アル)海の鵜飼は、
日本の鵜飼と異なり、鵜に紐はついてなく、自由に泳がせておいて、 首輪をつけて魚を飲み込めないようにしておき、鵜が獲物を捉えた所を見計らって、 鈎のついた竿で首輪を引っ掛けて舟に寄せる「放ち鵜飼」で、 鵜が深いところまで潜れるので効果が高い。 日本でも島根県益田市にあったが、 急流の多い日本での鵜飼は鵜が流されないように「繋ぎ鵜飼」が主流になった。
鵜はペリカンだった
「詩経」の「国風」(西周から春秋の黄河流域の諸国の様子)
「曹風」(曹の国の様子)の陸機(王へん)による解釈(三国時代の呉)
「鵜は水鳥なり。形は鶚(みさご)の如くして極めて大きく、喙(くちばし)の長さは尺余、直して広し。
口中は正赤(まっか)なり。頷(あご)の下の胡は、大なること数升の嚢(ふくろ)の如し、
若し小沢の中に魚有れば、便(すなわ)ち群れは共に水を予(手へん)(くみ)、
その胡を満たしてこれを棄て、水をして竭尽(つき)せしむ。魚の陸地に在りて、
すなわち共にこれを食らう。」
中国で鵜という字はペリカンを意味し、本来のウを表す字は廬鳥(ろ)磁鳥(石なし)(じ)と表す。 「日本書紀」は「ろじ」としているが、「古事記」は鵜となっているので古事記の編者が誤用したと考えられる。 ペリカンは日本に原産せず、迷鳥として飛来するだけなので区別ができなかったようだ。