第21項 精霊信仰
参考資料
「稲作以前」佐々木高明、NHKブックス、1971年発行、に紹介された、
大阪市立大学岩田慶治の「タイにおけるピー信仰」によると、
ピー信仰の展開の過程は3つの段階に分けられる。
「稲作以前」原文そのままP239から
よばれるが、これも山や森、岩や樹木に依る一種の精霊であり、農耕をはじめとする生活の折目折
目や不幸が起こったときには、それに関係したブーメを呼び出し、これに供犠を捧げて祈る祭りが
行なわれている。なかでも興味をひくのは、カンチバラニとよぶ片目・片脚の女神のブーメの信仰
が、中部ネパールの村むらに広く行なわれていることだ。これは、わが国の山ノ神信仰の中にしば
しば登場している不具神を思いおこさせるような神である。
こうした精霊崇拝ともいえる神々の信仰は、東南アジアに広くみとめられるもので、タイ族の問
に広くみられるピーの信仰、ビルマ族のナット信仰、クメール族のニア・タアーの信仰、それにフ
ィリピンをはじめマレーシア地域に広くみとめられるアニト信仰など、東南アジアの諸民族の多く
は、山川草木をはじめ、村や耕地や人などのすべてに精霊の存在をみとめ、精霊の出没・去来する
世界に生きている。
もちろん、一口に精霊信仰とよんでも、東南アジアの諸民族のもっている精霊信仰がすべて同じ
だというのではない。民族により、地域により、その特色はさまざまであり、信仰形態のあり方
も、仏教やブラーマニズムなどの高度宗教とのかかわりあいの仕方も、相互に異なった特徴を示し
ている。
だが、全体として東南アジアの精霊信仰にはよく似た点が多く、それはさらに、わが国のカミ信
仰の特徴とも対比できる点が少なくないようである。
タイにおけるピー信仰のくわしい研究をした大阪市立大学の岩田慶治氏は、ピー信仰の展開の過
程を手ぎわよく要約したうえで、日本のカミ信仰と対比して、つぎのように述べている。
岩田氏によると、ピーの展開過程は、ほぼ三つの段階に分けて考えられる。
その第一期は「浮動するピー」の時期。そこではピーの性格は未分化であり、山河の自然によ
り、あるいは草木虫魚となって出没した。草木みな物いう時代である。だから、ピーの所在は明ら
かでなく、巨木・巨石のもとに臨時に祭りの場を定め、供物をささげてピーの心を和らげるだけで
あった。また、この時期にはピーと人間社会を媒介する特別な人、つまり呪者は発生せず、村の信
仰、家の信仰という信仰主体の分化もみられなかったかもしれないという。
その第二期は「去来するピー」の時期で、これを岩田氏は(A)(B)(C)の三段階に分けて考えている。
(A)の段階では、もろもろのピーの中から村人すべての先祖のピー、村人の守護者としてのピーが
選び出され、森の中の小祠に祭られている。しかしピーはこの村祠の中に住んでいるわけではな
く、祭りと村人の祈りに応じて出現し、また帰還する。つまり去来するわけだ。また、この段階に
なると、ピーの去来を占い、ピーの意志を代弁する「巫」があらわれる。しかし、個々の家族の祠
はまだみられない。
(B)の段階では、村の守護に任ずるピーのほかに、より広域の「クニ」を守護するピーが祭られる
ようになり、二棟の祠堂が並び立つようになる。守護神ピーの勢力拡大と地域の分担があらわれは
じめるわけだ。呪者や巫女の役割はこの段階では、よりすすみ、神態(かみわざ)、神楽(かぐら)の発生というところま
でくる。ただし家ごとのピー祠は、まだ十分発達していない。
さらに(C)の段階になると、呪者や巫は、むしろ司祭として祭りの執行を司るようになり、その司
祭の後継者の決定にも一定の手続きが規定されて、祭りを行なうものの組織化がすすむ。専門神職
の発生まであと一歩というところまできているといえる。また、この段階では村とは別に家ごとの
ピー祠があらわれ、そこに家の先祖のピーが宿るといわれている。このことは、「稲の生産性の高
さ、稲作における個別家族の経営の卓越、父系親族(氏族)の欠如といった現象とあわせて考えると
はなはだ示唆的である。つまり、生活の安定とともに家族単位の生活が強く顕在化したということ
であって、固有信仰もこれと歩調をあわせて、村落社会の行事と家族の行事とに分化したことを示
しているからである」と岩田氏は指摘している。いずれにしてもこの第二期では、ピーは祭りのと
きにピー祠に降臨し、祭りが終わるとピーの国に去る去来するカミとしての特色を失っていない。
ところがつぎの第三期「常住するピーの時期」になると、ピーはもう去来するカミでなくなる。
この期における典型的なピー祠の形態は、バンコック周辺にみられるプラ・プーム
(屋敷地の片隅に立てられている小さな柱上祠)
で、ここではその小祠の中には神像がおかれるようになり、ピーがいつもそこに宿っていることを
示している。またこのプラ・プームの信仰は純粋に家族ごとの信仰であって、一族のそれではない
ことも重要である。バンコックやその近隣では古い親族組繊の結合は解体し、家族単位の生活のみ
が表面にあらわれ、それに応じて村を単位とするピー信仰も家族的な変貌をとげてしまったという
のである。
岩田慶治氏の提出したこのピー信仰の展開過程についてその仮説は、東南アジアにおける精霊
(カミ)信仰の展開と変遷を整理するうえできわめて魅力に富むものである。例えば私がさきにあげ
たパーリア族の精霊ゴサインは、「草木みな物言う」第一期のそれからやや進歩し第二期の(A)の段
階へ移る過渡期のあたりに位置づけることができるだろう。また中部ネパールの農村にみられるブ
ーメの信仰は、ほぼ第二期の(A)段階に当たるものと考えてよいのではなかろうか。
さらに、東南アジアにおける水田稲作農業の展開過程とこの精霊(カミ)信仰の展開を重ね合わ
せて考えてみると、第一期の(A)の段階のすぐ前の時期のあたりに、「稲作以前」と「以後」の境目
があり、それ以後に、稲作農業の発展にともない、村落社会の地域的な進化、つまり村連合の形成
などによる社会的接触圏の拡大に応じて、「ムラ」のピーから「クニ」のピーヘの進化がみられ、ま
た稲作以後の家族を単位とする経済生活の独立性が高まるにつれて、家のピーの信仰がしだいに顕
在化してきたものとみることができる。
このように岩田慶治氏の東南アジアにおける精霊(カミ)信仰展開の仮説は、稲作以前と以後の
それを対比する際の論理の枠組としても十分役立てることができそうである。
また、同氏は「上記の精霊(カミ)信仰の展開過程をそのままに、ピーのかわりにカミをおきかえさ
えすれば、そのまま日本のカミ信仰の進化を語ることになる。それほど両者の類似には驚くべきも
のがある」と述べ、東南アジアと日本の宗教的土壌の類似性のきわめて高いことも指摘している。
もっとも、東南アジアにおけるカミ信仰は、草木みなもの言う段階から去来するカミの段階に進
化し、その後は家族の守護神に転落していったのに対し、日本のカミは、去来するカミの段階から
さらにいっそうの進化をとげ、カミと神社は国家統制あるいは地域編成の原理になっていった。諸
国には一ノ宮、二ノ宮が定められ、官製の『神名帳』が作成されて、日本におけるカミ信仰は国家
宗教として、その組織をととのえる方向に歩んでいった。
この点に、東南アジアと日本のカミ信仰の展開過程にみられる大きな差があるわけだが、私がい
まこの本の中で問題にしようとしているのは、こうした東南アジアや日本のカミ信仰の進化の全
過程、ないしはその全体系についてではない。ここで問題にしようとするのは、稲作以前と以後を
めぐる時期のカミ信仰の問題であり、その伝統が今日のわれわれの中にどのように生きているかと
いう点である。
岩田慶治『日本文化のふるさと 東南アジアの民族を訪ねて』,角川書店, 1991
P178
覡:おかんなぎ、ケキ、ゲキ
巫:めかんなぎ、フ、ブ
い)が代役をつとめる。司祭として男女いずれが古い形を残したものであるか、今にわかに決定し
かねる。
いずれにしろ、司祭は専業ではなく、日常は他の農民となんの変わるところもなく、田を耕し、
かごを編んでいる。ただ、祭りその他の宗教的行事のさいにだけ、司祭としてピーの応接にたずさ
わるのである。またこの能力は世襲されるものではないから、そのときどきにピーに感じ、ピーの
意思を知る神秘的能力をさずけられたものが司祭となり、村人がこれを承認するということになる。
もちろん村人の承認を得るためには、彼の能力を実証しなければならない。
ところで、タイ・ルー族のカオ・チャムの場合には、その地位の継承に関しておもしろい方法が
とられている。すなわち、もしカオ・チャムが死亡するか、老衰してその任に耐えなくなると、ま
ず村の呪者モー・モーがピーを招き、これに供物をそなえる。するとこのピーはメー・ティー・ヌ
ンとよばれるひとりの老女の体内にはいる。老女が神がかりになるわけで、このとき村人は洒と食
物をすすめながら、だれをつぎのカオ・チャムにえらぶべきか、うかがいをたてる。すると、メ
ー・ティー・ヌンは、ことばで答えるかわりに、わずかに身体を動かして、ある方向を示す。この
方向にすわっていた老人がつぎのカオ・チャムになるのである。神慮によって司祭をえらぶという
形態が、ここにははっきり残っている。
ピー信仰の展開 これまで東南アジアにおけるいわゆる精霊崇拝の諸相を、とくにタイ族のピ
ー信仰にかぎって概観してきた。そこでいちおうの総括として、仮説的にピー信仰の展開過程をス
ケッチしてみることにしよう。ただし、ここで展開過程というのは歴史的なそれではない。既述の
資料をやや論理的に配列してみようというまでである。三期にわかって略述する (一七七ページ表
参照)。
(第一期)この時期の全体的特徴を「浮動するピー」の時期としてとらえることができる。ピーの
性格は未分化、不明瞭であり、それは山河の自然により、あるいは草木虫魚となって出没した。草
木みな物いう時代である。したがって、ピーの所在も明らかでなく、巨木、巨石のもとに臨時の祭
場を定め、供物をささげてピーの心をやわらげるだけであったし、また、ターレオを立ててピーの
侵害を防ぐのがせいいっぱいであった。ピーと人間社会を媒介する特別な人つまり呪者は発生せず、
村人がめいめいの手段をつくしてこれに対応していた。村の信仰、家の信仰という、信仰主体の分
化もみられなかったかもしれない。
(第二期)この時期を「去来するピー」の時期としておこう。(A)(B)(C)の三期に分けて考えることと
する。
(A)この時期に該当するものとして、パ・タン村の事例を考えているが、そこでは、もろもろの
ピーの中から村人すべての先祖のピー、村人の守護者としてピーがえらび出され、森の中の小祠に
祭られている。しかしピーはこの村祠のなかに住んでいるわけではなく、祭りと村人の祈りに応じ
て出現し、また帰還する。だから、村祠の中にはピーの滞在を証明するものは何一つない。まった
くのガランドウである。しかしピーの去来を占い、ピーの意思を代弁するものとしてモー・モーが
おり、彼の特殊な呪術・宗教的経験が村人のあいだに高く評価されている。パ・タン村は、若干の
氏族(スア・デイオ・カン)からなる同族村であって、ピー祭祠の主体がこれら同族によって分担
されている。ここにはまだ個々の家族のピー祠は見られない。
(B)シャン族のメーコン村についてみると、二、三の点でパ・タン村より進化した点が認められ
る。たとえば村の守護に任ずるピーのほかに、より広域の、「くに」を守護するピーが祭られてお
り、したがって、二棟の祠堂がならび立っている。守護神としてのピーの勢力拡大と地域分担とが
あらわれたことであり、村によって三棟のピー祠さえ見られる。呪者モー・ピーはメーコン村には
いないが、周辺のシャン族村にはかならず、一人ないし二人いて、ピー祠の管理にあたっている。
もしここにチェンマイ付近における巫女の役割を考えに入れてみると、モー・ピーの役割が、ピー
と人との媒介者から、ピーの代弁者、演技者に進んでいることを知るであろう。神態、神楽の発生
ということができる。ただしメーコン村およびその周辺村落にも家ごとのピー祠は見られない。こ
れをただちに村落社会における家族の独立性の問題と結びつけ、ここに同族的村落の一特質を見い
だすこともできないことではないが、シャン族の家々にはりっぱな仏壇があるところを見ると、そ
うばかりもいえない。家に定着した仏教が、家のピー祠の存在理由を奪った、という見方もできる
わけである。
(C)この時期の例として、ノーン・ルー村をあげることができる。ここでは、村のピー祠と「く
に」のピー祠とが二棟の祠堂に祭られており、呪者はむしろ司祭として祭りの執行を指導している。
しかも、司祭の後継者決定法にも一定の手続きが規定されており、この点についての組織化は、専
門神職の発生まであと一歩というところに迫っている。またノーン・ルー村と近隣諸村のあいだに
はピーの親族関係が認められていて、先祖のピーという血縁神のなかに多分に地縁的性格がはいり
こんでいる。カミの秩序、カミの親縁関係を軸として、地域社会の編成と安定とが意図されている
わけである。
一方この村には、別に家ごとのピー祠があり、そこに家の先祖のピーが宿るといっている。この
ピー祠はそまつなものであるが、祭りの方法、手順および司祭による指揮は村のそれと同じである。
このことは、ノーン・ルー村における稲の生産性の高さ、稲作における個別家族経営の卓越、父系
親族(氏族)の欠如といった現象と思いあわせて考えるとはなはだ示唆的である。つまり、生活の
安定とともに家族単位の生活が強く顕在化したということであって、固有信仰もこれと歩調を合わ
せて、村落社会の行事と家族の行事とに分化したことを示しているからである。
私は、以上、仮説的ではあるが、この時期における固有信仰の進化を、(A)→(B)→(C)という分化、
発展の過程においてとらえておく。もちろん、この時期を通じて、ピーは去来するものであり、祭
りのさいにのみピー祠に降臨し、祭りが終わるとともにふたたびピーの国へ去っていくという基本
型を失ってはいない。
(第三期)この時期を「常住するピー」の時期としよう。そうすると、これをタイ系諸族における
固有信仰の展開のうえにどう位置づけるか、はなはだ困難な問題となってくる。しかし、ここでは、
いちおうつぎのごとく解しておく。すなわち、バンコック周辺に見られるプラ・プーム(柱上祠)
をこれにあてることであるが、そこにはいくつかの特徴が見られる。まずピーはつねにプラ・プー
ムの中に住んでいるらしいこと。この点は、プラ・プームが、これまで見てきたピー祠と違ってつ
ねにその内にカミの座像をおさめていることからも知られる。この座像は仏像のようにも思われる
し、ピーとヒンズー教の神との習合像とも考えられるが、要するに、そこにご神体があるのである。
つぎにプラ・プーム信仰は純粋に家族ごとの信仰であって、一族のそれではない。都市およびその
近隣では、氏族的結合は解体して、家族単位の生活のみが表面にあらわれているが、ピー信仰もこ
れに応じて家族的変貌をとげてしまった。村のピー祠は完全に家のプラ・プームにその席を譲った
のである。したがって、村の呪術者、司祭はその姿を消し、今日、プラ・プームを管理するものは
プラーマンの神職である。もちろん、もろもろの悪霊を防ぐためのターレオなどはバンコック周辺
にはまったく見られない。ここでは、草木は物いわず、大樹、巨木の洞にも悪しきピーはひそんで
いないのである。ピーは都市人のあいだではもっぱら幽霊、お化けとして語られているにすぎない。
したがってタイ系諸族におけるピー信仰の流れを要約すれば、浮動するピーの時代から去来する
ピーの時代へと進化、展開をとげ、ノーン・ルー村に見るごとき状態においていちおうのクライマ
ックスに達した。その後のピー信仰はもっぱら衰退の方向をたどり、ついにはプラ・プーム式の家
の守護者になり終わったということができるであろう。極彩色のコンクリート製柱上祠は、ありし
日のピー信仰のなれの果てではなかろうか。
ピー信仰とカミ信仰 ピー信仰の展開過程をわが国におけるカミ信仰のそれと対比する試みは、
きわめて魅力的である。しかしここでは、たんにごく大すじにおける相似を指摘するにとどめよう。
というよりも、上記の展開過程をそのままに、ピーのかわりにカミをおきかえさえすれば、そのま
ま日本のカミ信仰の進化を語ることになる。それほど両者の類似には驚くべきものがある。
草木みな物いう時代においては、もちろん彼我の間に相違はなかったであろう。わが国では、へ
ビやオオカミやキツネがカミであり、スギ、クスノキ、ケヤキなどのこんもりした木立にカミが宿
っていた。そのなかのあるものをえらんで穀物神を
考え、ウガノミタマ、トヨウケビメなどと名づけ、
さらにすすんで国魂、国主を考えたことなど、ピ
ー・ムアン(くにたま)、チャオ・ムアン(くにぬ
し)の発想とまったく異ならないではないか。
やがてカミは時を定めて去来することになり、そ
のために祭場とカミのよりしろとを用意することに
西双版納 早| 守護霊 ピー