第1章 雲南
(テン)王国
は現地ではジョ
ン、雲南省の旧名で、
雲南料理は
味
(ジョンウェイ)。
池(340平方km)
1956年〜60年雲南博物館の晋寧県石寨(サイ)山の4次の発掘調査により、紀元前1000年紀の大量の青銅器が発見された。 このうち約50基の王墓を含む墓のうち六号墓から「テン王之印」が出土した。 これはbc109年漢の武帝が下賜したもので、1784年福岡県志賀島で発見された金印「漢委奴国王」印と酷似している。 こちらは約150年後のad57年後漢の光武帝より下賜されたもので、2.3cm四方で大きさがほぼ同じである。 鈕(ちゅう=印の上にあるつまみ)が蛇の形になっているが、鈕には虎、亀、駱駝、蛇があり、 駱駝と蛇は辺境の諸属国に与えられたもので、駱駝は北方の草原砂漠地帯の遊牧民族に、 蛇は農耕民の神であるから、南方の湿地帯の農耕民族に与えられた。 このことから、漢は両者を同じものとして認識していたことがわかる。
周初、前1千年頃
雲南省
池
または周辺に点在する湖
南の無仙湖(
)、
陽宗海(
)、
星雲湖、杞麓湖などの湖畔に栄えた王国。
周第二代成王BC1000
(ちょうそう、暢草)を献上
「論衝」の記述
・周時天下太平にして、越裳(えっしょう)白雉(はくち)を献じ、倭人ちょうそうを貢す。(第八儒増編)
・ちょうそうは倭より献ず。(第十三超奇編)
・成王時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢す。(第十九恢国編)
越裳や越常は越人のこと
「後漢書」南蛮伝に「交足止(し)の南、越裳国あり」とあるが、この越裳国はBC334越が楚に討たれ、南方に逃れて建国したもので、
ベトナム南部である。
周代の頃は揚子江下流域にいた越人を指す。
ちょうそうは現在の霊芝で、日本の万年茸の「猿の腰掛け」に似た茸。
黍酒に入れて不老長寿の妙薬とされ、神や賓客に供する貴重なもの。
「本草綱目」などによると「四川省巴県西方の辺境の山に生える」
現在、大雪山系や玉龍雪山の特産物
周の都に近い巴か蜀の国が献上したものと考えられる。
「史記」の西南夷列伝
春秋後期(bc4〜5)〜後漢後期(ad1)
(てん):てん池地区、金印を受ける。2.夜朗(やろう):貴州省西境の北盤江、金印を受ける。 「夜郎自大」という言葉は夜郎国を蔑視したことからできたもので、自と大で臭を意味する。
3.且蘭(しょらん)
以上の3つが大国
4.
(コン)都(きょうと):四川省西昌あたり
5.
結(ついけい):つちの形のように前後に突き出たまげ
6.昆明(こんめい):塩原〜剣川
7.
(ずい):鳥と弓を表す字、西昌。
8.
(し):天全の東
9.
(さく):竹の縄、清渓東南。
10.
(ぜん):茂県
11.
(ぼう):茂県
12.蜀(しょく):成都市
13.巴(ぱ):重慶市
歌垣の風習
14.
(ぽ):白族の先祖(四川省南部、云南省東北部)
15.甘粛省に白馬:(成県)
前漢の武帝は、北の匈奴に対抗するため、張けんを中央アジアの大月氏(だいげっし)国や大夏(たいか)国に派遣する。 大夏の市場できょう国の竹杖と蜀国の布が身毒(しんどく)国(インド)を経由して来たことを知る。 帰国後、北路(後のシルクロード)は砂漠や険阻な山の他、匈奴や西蔵族の妨害があって危険であること。 それに対し、大夏の商人の話からインドを経る南路があり、それが安全であることを進言する。 そこで武帝は南路開拓のために、その道筋の倭人の国々を討って領有し、インドを経て、 中央アジアに至る道を計画する。武帝は試みに4つの道に分けて、大夏への密使を出すが、 北はさくと西蔵族に、南はずいと昆明の倭人に塞がれる。そこで数万の兵を出すが失敗する。
と夜郎だけ郡制で残る。
「史記」「巴・蜀ともに漢化をうけ、衣服・風俗を変えて同化す」
降って入朝を申し出たので金印を授けたが、益州郡、そうか郡として郡制をしく。
しかしミャンマーへの要衝の地を握る昆明が最後まで抵抗し、南路開拓は実現しなかった。
三国時代の225年蜀によりてん、夜郎、昆明滅ぶ
西南シルクロード
蜀から大夏へ4つの道
(ぼう)、
(ぜん)、
(し)、
(きょう)
から出たもの
池に白蛮(タイ族進出)
(ある)海に烏蛮(ロロ・ビルマ語族)
烏蛮500年後の唐代に南詔国
大理国タイ族
1253年元のフビライ
黄河流域との比較
黄河流域 | てん池 |
黍などを中心に畑作農耕 | 水稲農耕 |
漢族や苗族 | 倭族 |
土間式住居 | 高床式住居 |
地炉 | 炉が床上 |
土足 | 屋内に履き物を脱いで上がる |