第1章 雲南
古代南詔の首府は羊苴(口羊)
(羊
)
烏蛮種は
海周辺に六つの政権を建てた(詔は王のこと)
2.越析詔 鳳儀県〜賓川県 麗江府
3.浪穹詔 源県
4.
(トンセン)詔 川県
5.施浪詔 源県 牟和城
6.蒙舎詔 詔山県
このうち最も南に位置した蒙舎詔が南詔と言われた。
(ホウクン)の乱
875年〜884年黄巣の乱により長安から広州まで戦火が広がり唐朝は衰弱する。
907年唐朝滅亡
902年13代255年間に渡る南詔蒙氏政権も、鄭買嗣の政権奪取により崩壊。
蒙氏の勢力下にあった諸白蛮の有力者が王位を争い、
928年鄭氏政権は3代26年で趙善政に位を奪われる。
趙善政もわずか1年たらずで楊干貞に王位を明け渡す。
937年楊干貞の治世は8年続いたが、白蛮の段思平がこれを倒し大理国を建設する。
967年四川を平定した宋の太祖(在位960年〜976年)は、
続いて雲南に進出するように勧められたが、
唐の災いを繰り返すまいと地図の上に玉斧で線を引き金沙江を境とする。
大理国は安定した政権を築き、段氏政権は14代158年におよぶ。
1094年権臣高昇泰が段氏政権から王位を奪い、大中国と号した。
1096年段氏一族が復帰して後理を建てる。
後理は北宋、南宋と交渉があり、
1117年第二代の王段和誉(在位1108年〜1147年)は、
水滸伝で有名な北宋の徽宗(在位1100年〜1125年)から大理国王に封ぜられる。
後理は8代158年続く。
1253年大理国は南征した忽必烈(フビライ)麾下のモンゴル軍に滅ぼされる。
モンゴルは南宋攻略の包囲作戦の一環として、雲南に着目した。
雲南は地理的位置が、
北東は長江上流地域、四川、
東南はベトナム、
南はタイ、カンボジア(当時アンコール帝国)、
西南はビルマ(当時パガン王朝、1287年に元軍により滅亡)、インド、
北はチベットと
各方面に通ずる軍事・通商上の要衝であり、
もう一つの大きな魅力は金銀の生産地であったことで、
特に銀は当時の世界通貨であった。現在でも盈江市は錫、銀、金、鉛、
个旧(コーチウ)市は錫、銀、アルミの採掘地である。
雲南遠征に10万の兵力を投入したが、峻険な山々や南方の悪疫により、
半分以上の兵馬が失われた。
1255年には周辺地域を制圧する。
しかしその統治は殺戮や略奪・破壊を伴わない穏健なもので、
国王の段興智を捕らえたが、後にマハラジャの称号を与え復活させた。
追われた後理の一派がメコン河を南下し、
ラオスのルアン・プラバン、タイのチェンマイなどに、
流れ込んだとも言われている。
雲南行中書省を昆明に設け、中慶城を置いた。
支配はイスラム教徒に委ね、
モスリムの名門サイイド・アッジャルを登用する。
高度な鉱山技術を持つ。
中央アジア方面から数千人規模のモスリム商人やウィグル人が移住する。
軍事駐屯兵としてキタイ人を配する。
チェンマイなどのイスラム華僑はその末裔。