第1章 雲南
 第3節 雲南の歴史
  第2項 南詔国

南詔とは

古代南詔の首府は羊苴(口羊) (羊

唐代(618年〜907年)南詔
宋代(北宋960年〜1127年、南宋1127年〜1279年)大理
唐代前半諸部族が分立抗争
大理盆地南部に有力氏族の連合政権と推測される
張氏白子国
南詔を建てた蒙氏一族はこの白子国から政権を委譲
唐代には烏蛮、白蛮の二大系統の民族
烏蛮はイ族
白蛮はペー族

烏蛮種は海周辺に六つの政権を建てた(詔は王のこと)

1.蒙攜(スイ)詔   山県北部〜様県

2.越析詔    鳳儀県〜賓川県 麗江府

3.浪穹詔    源県

4.(トンセン)詔 川県

5.施浪詔   源県 牟和城

6.蒙舎詔   詔山県

このうち最も南に位置した蒙舎詔が南詔と言われた。

南詔の歴史

南詔蒙氏の始祖は舎龍、その子が龍独羅または細奴羅という。
653年龍独羅は子の羅盛炎を唐に遣わし、高宗帝により山刺使に任ぜられる。

四代目の首長皮羅閣(在位728年〜748年)の時に勢力を拡大する。
737年白氏国を倒し、太和城(大理県太和村)を取り、翌年、吐蕃を征討し、 唐の玄宗帝より蒙帰義の名を授けられ、雲南王の称号を得る。
次いで北部の五詔を併合し大理盆地を押さえ、さらに東の昆明盆地に進出して白蛮の爨(サン)氏を併呑した。
以上の南詔蒙氏の勢力拡大は唐朝の協力を得て行われた。
唐の玄宗帝(在位712年〜756年)は、 青海省から甘粛省方面に進出を企てる西蔵の吐蕃と争っていたので、 吐蕃の南西に位置する南詔は唐にとって吐蕃を牽制するのに好都合であった。

しかし、第五代閣羅鳳(在位748年〜779年)のときに、 唐朝前線指揮官の無理な要求に対し750年叛旗を翻す。
翌年唐も南詔討伐軍として剣南節度使・鮮干仲通8万の兵を送るが惨敗する。
752年、754年7万の兵と立て続けに討伐軍を送るがいずれも惨敗する。
楊貴妃により玄宗に取り立てられた楊国忠の策はことごとく失敗に終わる。
この頃華北で安禄山が安史の乱(755年〜763年)を起こし、 この乱に乗じた吐蕃は一時唐の都長安(今の西安)を占領し、 唐は南詔から手を引かざるをえなくなった。

752年南詔は吐蕃に弟として仕え、吐蕃は閣羅鳳を賛普鐘とし東帝を名乗らせ、 金印を与える。賛普は君主、鐘は弟の意味。
757年雲南省と四川省南部を領域
761年鳳伽異、拓東(昆明)に驃国の捕虜を隷配する

779年南詔・吐蕃両軍が唐の正規軍に惨敗

唐の宰相李泌は北の回鶻(ウィグル)と南の南詔と結んで、 吐蕃を南北から牽制しようとする策がなり、
794年第六代異牟尋(在位779年〜808年)は、 吐蕃を離れ唐に帰附し、南詔王に封ぜられる。 吐蕃の金印を唐に献上し、 金に銀文字の「貞元冊南詔印」を授与される。 (貞元は唐の年号で785年〜804年)

801年南詔・唐が吐蕃を大敗させる、その後混乱期。

唐と吐蕃は783年、822年の2度の会盟を経て安定する。
829年南詔は成都に入寇し、以後唐に対し攻勢に出る。
さらに吐蕃が内紛によって衰えたため、南詔が中国西南に威を振るうようになる。
832年驃国を亡ぼす
835年弥臣国(古ペグー)のモンを亡ぼす
843年吐蕃王国は250年の歴史を閉じる。
868年〜869年桂州(桂林)の唐の部隊(ホウクン)の乱

875年〜884年黄巣の乱により長安から広州まで戦火が広がり唐朝は衰弱する。
907年唐朝滅亡

902年13代255年間に渡る南詔蒙氏政権も、鄭買嗣の政権奪取により崩壊。
蒙氏の勢力下にあった諸白蛮の有力者が王位を争い、
928年鄭氏政権は3代26年で趙善政に位を奪われる。 趙善政もわずか1年たらずで楊干貞に王位を明け渡す。
937年楊干貞の治世は8年続いたが、白蛮の段思平がこれを倒し大理国を建設する。

967年四川を平定した宋の太祖(在位960年〜976年)は、 続いて雲南に進出するように勧められたが、 唐の災いを繰り返すまいと地図の上に玉斧で線を引き金沙江を境とする。
大理国は安定した政権を築き、段氏政権は14代158年におよぶ。

1094年権臣高昇泰が段氏政権から王位を奪い、大中国と号した。
1096年段氏一族が復帰して後理を建てる。 後理は北宋、南宋と交渉があり、
1117年第二代の王段和誉(在位1108年〜1147年)は、 水滸伝で有名な北宋の徽宗(在位1100年〜1125年)から大理国王に封ぜられる。
後理は8代158年続く。

1253年大理国は南征した忽必烈(フビライ)麾下のモンゴル軍に滅ぼされる。
モンゴルは南宋攻略の包囲作戦の一環として、雲南に着目した。 雲南は地理的位置が、 北東は長江上流地域、四川、 東南はベトナム、 南はタイ、カンボジア(当時アンコール帝国)、 西南はビルマ(当時パガン王朝、1287年に元軍により滅亡)、インド、 北はチベットと 各方面に通ずる軍事・通商上の要衝であり、 もう一つの大きな魅力は金銀の生産地であったことで、 特に銀は当時の世界通貨であった。現在でも盈江市は錫、銀、金、鉛、 个旧(コーチウ)市は錫、銀、アルミの採掘地である。

雲南遠征に10万の兵力を投入したが、峻険な山々や南方の悪疫により、 半分以上の兵馬が失われた。

1255年には周辺地域を制圧する。
しかしその統治は殺戮や略奪・破壊を伴わない穏健なもので、 国王の段興智を捕らえたが、後にマハラジャの称号を与え復活させた。
追われた後理の一派がメコン河を南下し、 ラオスのルアン・プラバン、タイのチェンマイなどに、 流れ込んだとも言われている。

雲南行中書省を昆明に設け、中慶城を置いた。
支配はイスラム教徒に委ね、 モスリムの名門サイイド・アッジャルを登用する。
高度な鉱山技術を持つ。 中央アジア方面から数千人規模のモスリム商人やウィグル人が移住する。
軍事駐屯兵としてキタイ人を配する。
チェンマイなどのイスラム華僑はその末裔。